TRFのダンサーSAMが明かす、アイドルダンスユニット時代の過去

2018.10.13
by gyouza(まぐまぐ編集部)
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1990年代、日本を席巻した音楽ダンスユニットTRFの中心メンバーで、ダンス界のレジェンドとも言えるSAMさん。実はかつて4人組のアイドルダンスユニットを結成していたという貴重なエピソードを、当時の写真とともに公開しています。若き日のSAMさんの知られざる姿をぜひご覧ください。

SAMが貴重な写真を公開!

ここでは、ダンサー・SAMとしての今までとこれからを自伝的に語ります。ダンサーの道を切り開きながら40年以上踊り続けてこられた秘訣について、感じてもらえたらと思います。

ディスコ全盛時代、働きながら踊る日々

“プロになってこのダンスを世に広める!”って決めて、「全国ディスコ協会」にスカウトされたのが高3のときのこと。高校を卒業すると同時に、ディスコでウェイターしながらステージに立つ生活が始まりまた。でも、働くのと踊るのって全然違って、働くのつらいんですよね…(笑)

当時、主に2つのディスコに通ってたんですけど、1つが赤坂の『シンデレラ』ってディスコ。そこはもうウェイターとか皿洗いとかなんでもやった。半年ぐらいしてから、飯倉片町に「プレステージ」っていう、“日本初のカフェバー”って銘打ったクラブとディスコの中間みたいな店ができたので、そこのオープニングスタッフになって、1年ぐらい働きました。

「プレステージ」はウェイターのコスチュームがスゴかった。「アーストンボラージュ」っていうブランドの、当時一番とんがってるデザイナーの佐藤孝信さんっていう人がデザインしたやつで、なんか真っ赤なものすごい衣装だったんですけど、僕もそれを着せられて(笑)

それで結構話題になってたんで、外国人とか芸能人とかもよく遊びに来てました。マッチとかトシちゃんとかね。

あとプレステージのもう1つのウリが、サンドイッチ屋さんと焼き鳥屋さんがあって「フードがしっかりしてる」っていうのだったんですけど(笑)、ヤキトリ屋さんの彼女が当時人気絶頂のアイドルの子で。。。ほんと今思えばすごい華やかな時代というか、まさにディスコ全盛期でしたね。

突然の「お前ら歌え」命令

それで働きながら踊る生活が1年くらい過ぎたとき、「全国ディスコ協会」のトップの勝本さんから、突然集められて4人組にされて、「お前ら歌え」って急に言われたんですよ!(笑) 19ぐらいのときだったかな。「ビクターでデビューさせるけど、お前らの中で歌うまいやついないのか」って。

で、白羽の矢が立ったのが「ヤクシ」。当時、新宿の「ニューヨークニューヨーク」っていうディスコの常連の仲間と「ミッキーマウス」っていうダンスチームをやってて、レギュラーは7人だったんですけど、取り巻きが30人とか40人とかいたんですよ。

「ダンスはそんなにうまくないけど仲間でいたい」っていうのが年下も年上もいっぱいぶら下がってて。その中の1人がヤクシ(笑)

ダンスは微妙だったけど歌がうまかったんですよ。新井薬師の四畳半ぐらいのアパートに住んでて、みんなのたまり場になってたんで「ヤクシ」って呼ばれてたんですけど、本名は全然違う(笑)

で、ヤクシがボーカルになって、僕とあと2人のダンサーで、4人組のアイドル・ダンス・ユニット「チャンプ」としてデビューしました。そう、最初のデビューはアイドルだったんですよ(笑)

波乱万丈のアイドルデビュー

デビュー直後はほんと波乱万丈でした。。。(笑)

まず、デビュー曲からしてトラブルに見舞われて。歌詞が「朝までディスコで夜通し踊ろうぜ」みたいな内容だったんですけど、発売前のタイミングでちょうど「ディスコ殺人事件」っていう有名な事件が起きたんです。これがきっかけで風営法ができて、ディスコは深夜営業できなくなっちゃって。

それがちょうど発売とぶつかっちゃったんで、あんまり大々的に出せないってことで、なんとA面とB面をひっくり返されたんですよ! カップリングのほうがA面になって、デビュー曲がカップリングになっちゃった(笑) いい曲だったんですけどね^^;

しかもその頃、僕ら毎晩歌舞伎町にいたんですけど、犯人のモンタージュ写真がそこらじゅうに出回ってて、そいつがちょっとアイドルチックな髪型してたんですね。で、僕もそんな髪型だったんで、「似てる」とか言われて、歌舞伎町の裏の交番のおまわりさんに呼び出されて。「お前毎晩ここらにいるよな」って、事件の日のアリバイとか2時間ぐらい聴取された……(笑)

「ディスコ禁止令」を出されたリフラフ時代

チャンプとしては1年くらい活動してたんですけど、そうやっていろいろトラブルがあった上に、当時ジャニーズのトシちゃんとか全盛の頃なんで、男のアイドルグループは売れなかったです。あんまりテレビとかも出れなくて。

「このままじゃこの先厳しいだろう」ってなって、勝本さんの知り合いの事務所を紹介されて、そこに4人で移籍しました。そこから「Riff Raff(リフラフ)」って名前に変えて再デビューしたんです。こっちは3年くらいやってたかな。シングルは4~5枚、アルバムも2~3枚出して、そこそこ人気あったと思う。

当時イギリスの「デュラン・デュラン」とか「カルチャー・クラブ」とか、派手な見た目の4人組バンドがすごい人気だったので、それにあやかって、僕らも髪染めてメイクして。キャッチコピーは”和製外国人”。(笑)

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Riff Raff時代の和製外国人風ショット。一番右が僕です(笑)

“歌って踊れる4人組”ってコンセプトではあったんですけど、やっぱりアイドルなんで、「ディスコに行くな」って禁止令を出されてました。「夜の匂いが抜けないから」って(笑) あと人前でタバコ吸うなとか、ニュースを見ろとか、そういう教育をしてもらった。

今タレントやってる勝俣州和くんも、実は当時「CHA-CHA」っていうアイドルグループにいて、同期みたいな感じだったんですけど、勝俣くんは「リフラフはダンスうまかったよね」って言ってくれてますね。

アイドルか、バックダンサーかの二択しかなかった

なんでダンサー志望だった僕がアイドルをやってたかっていうと、「自分たちのダンスを世に出すには、テレビに出るのが一番いい」と思ったからでした。

それで思い切ってデビューしたんですけど、思ったほど売れなくて、テレビにもそんなに出れない日々が続きました。他の3人のメンバーも僕ほどダンスに対してストイックではなかったので、だんだん活動がストレスになってきて。。。

それで、もうグループは辞めたい、1人でアメリカに行って、本場のダンスを勉強したい、もっと練習したいって日に日に強く思うようになってました。

周りに「やめたい」ってこぼしながら、目黒の区民センターで毎日ダンスの練習してました。そしたら、ある日その練習室に事務所の社長から電話かかってきて。「お前やめたいのか?」って聞かれたんです。

「やべえバレた!」って焦ったんですけど(笑)、ここで言ったほうがいいと思って「やめたいです、それでアメリカ行ってダンサーになりたいです」って正直に言いました。そしたら「お前バカか!」って言われて。「ダンサーなんて歌手の後ろで踊るんだぞ。お前、せっかく今メインで前に出て踊れてるのに、わざわざバックに下がる気なのか」って。

もちろん、自分的には全然そんなつもりなかったんですよ。自分だけでカッコよく魅せるダンサーを目指してたんで。でも社長は

「ダンサー=バックダンサー」って解釈をしてたんですね。当時、ディスコではダンサーが前に出てカッコよく踊ってましたけど、メディアではまだまだダンサーはバックにいるもので、メインで出るものじゃなかったんです。

でも僕の気持ちは変わらなくて、当時ブレイクダンスを中心にやってたので、ニューヨークの本場を見て、練習して、ダンサーになってやると。そしたら「お前がやめるんだったらもう、解散だ」って言われて、解散になりました。

解散から半年後くらいに渡米しました。NY時代もこれまたすごい波乱万丈だったんですけど、この続きはまた次回!(>_<)

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