偏差値やテストの順位等々、「世界は競争で成り立っている」ことを叩き込まれ続けている子供たち。しかし、他人と比べて秀でていることのみに注目した学校教育は「正解」なのでしょうか。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では現役教師の松尾英明さんが、競争の原理を教育現場に持ち込むべきでない理由を解説しています。
教育に競争を持ち込まない
学校教育における「競争」について。
先に結論を述べる。学校教育に競争を持ち込むと、ろくなことにならない。メリットより害悪の方がはるかに多い。なぜなら、競争は協働の力を削ぐからである。
ちなみに、教員評価制度もこれである。一緒に働く仲間同士に誰かの視点で優劣をつけられると、うまく協働できなくなる。損得で働くことになり、結果的に評価につながらない損な役回りは誰もしなくなり、学校は荒れる。要は、教育現場なのにアメとムチで人を動かそうということであり、退廃はわかりきったことである(「目立つ」子どもをよくほめる、叱る教師の学級が荒れるのと同じ原理である)。
競争は「相手より優位に、上に立つ」ことを目標とする。1位が一番良いし、人より先んじることが善である。最下位が最も劣る評定で、人と比べて遅れることが、そのままマイナス評価になる。
ここまで書いていることだけでも、教育の現場に全く馴染まないのがよくわかる。
ちなみに競争の象徴であるかのような部活動指導も、優れた指導者は競争原理ではなく、協働の原理を上手に使って導いている。だから、チームの雰囲気が、誰に対しても本当にいいのである。ただ強さだけを求めるチームは、差別やいじめがあるなどして、チーム内がぎすぎすしているはずである(競争は、ランキングというその性質上、必ず差別化を含む)。
健全な競争は、企業間にとっては有効に働く。企業間競争が、顧客にとってのサービス向上にもつながるのも事実である(ただしこれが値下げ競争の形をとると、サービスの質の低下にもつながる)。
しかし、市場原理の多くは、教育には馴染まない。
なぜなら、学校にとっての顧客とは、子ども全員、一人一人だからである。A君が1位でZ君が最下位、というような見方では、全員を「良く」したことにならない。教育は「常時善導」であるべきで、自尊感情を損なうことは「悪導」(注:松尾造語)であり、マイナスである。
これは、例えば「叱ってはならない」ということではない。叱ることによって善導もできるし、「悪導」にもなる。ほめることも同様である。
この叱る・ほめるを、競争として使わないというのは、重要にして最もできていない部分である。
何かが人よりできたからほめる。
勝ったからほめる。
成功したからほめる。
何かが人よりできないから叱る。
失敗したから叱る。
負けたから、叱る。
結果を、他人と比べる。
全て、激しくマイナスである(だから、通知表を互いに見せるような行為は、厳に慎むべきこととして教える。ここは親同士も同様である。兄弟間も×である)。
特に、世間の一部で「ほめる」を手放しにプラスに捉える傾向があるので、要注意である。以前も書いたが「100点をほめる」と、子どもはどんどん追い詰められる(参考:プレジデントオンライン記事「『100点答案』を褒めると勉強嫌いになる」)。
叱るのは、人の道として誤っていると思うから叱るのである(怒るのは、感情的に気に入らないから怒るのである。人間同士の教育だから、それもある)。ほめるのは、(上の立場から)相手の努力といった人間性に対して心からの賞賛、拍手を送りたいから、ほめるのである。単なる結果でしかない点数をほめるのとは、全く違う。
勉強とは、競争ではない。勉強とは、たゆまぬ自己研鑽である。受験はどうだというかもしれないが、あれも根本は自分とのたたかいである。結果はすべて自分を高めた結果であり、周りとの比較など本来関係ないはずである(とる側が合格して欲しいと思うような人間は、誰と比較しなくてもわかる)。
同じ方向を見つめる仲間と、競争ではなく協働して「切磋琢磨」すればいいのである。「受験競争」でマウンティングしたり、相手を貶めたりする必要はない。
学級での些細な言動、あるいは授業の中で、ちょっとした競争をさせてしまっていないか。それによって、ぎすぎすした人間関係を築く「悪導」をしてしまっていることを見過ごしていないか。
学級で協働がうまくいかない根本的な原因を、そういった行為が作っている可能性がある。特に、親や教師といった大人が、他者より優れたい、自分だけが得したい、という思いがあると、それは子どもに移る。教育において、競争原理の扱いについては、十分注意したい。
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